Why Music?

音楽との出会い

音楽との出会いについて、徒然なるままに綴ってみました。(2004年6月14日記)


Part I

幼少時代のこと

小さい頃から音楽が大好きでした。近所のおじさん(通称ヤッチャン)が大のベートーベン好き。よく口笛で英雄の変奏曲のテーマなんかを吹きながらトラックを運転していました。(こんなおじさん普通いない。)ヤッチャンの家に遊びに行くと、レコードを聴かせてくれたものです。

LPジャケットから、レコードの入ったビニールを出し、さらにビニールからレコードを出し、そお〜っと埃をクリーナーでとって、静かにターンテーブルに置く。まるで儀式のような仕草。そしてレコード針がかすかにレコード面に着地した時、部屋中の空気がスピーカーからの圧力でわずかに揺れ動く。パチパチと微かなノイズでさえ厳かな雰囲気を醸し出します。そして響き渡る曲の数々。もちろん家でも母親が(教育に良いと思ったのか)「ウィンナワルツ」やら「エリーゼのために」やら聴かせてくれましたが、正直退屈でした。やっぱりヤッチャンちの皇帝や運命が大好き。ヤッチャンのお気に入りの指揮者はブルーノ・ワルター。あの独特の風貌がジャケット一面に載っていて、5、6歳の僕にも印象的でした。

そしてご飯までごちそうになり、家では「絶対」見せてくれない「シャボン玉ホリデー」を思う存分見て家路につくのでした。ちょうどハナ肇がエンディングでザ・ピーナッツにひじ打ちを食らうところで、母が迎えに来たものです。昔話ついでにヤッチャンちのご飯がこれまたおいしい。特に、豚カツとハヤシライス。上京後、有名な豚カツ屋さん、洋食屋さんを随分行きましたが、あの味には遠く及ばず。もう二度と味わえないのかと思うと寂しい限り。ここでBGMは英雄第二楽章のフーガの部分・・・ちょっと劇的すぎるけど、ホントそれほど切ない。(2004年6月14日記)

Part II

指揮のこと

小学校4年生のときに、トランペット鼓隊に入り、小学校5、6年は合奏団でトランペットを担当。その後中学校、高校とずっと吹奏楽一筋、トランペット一筋でした。高校はいわゆる進学高ということもあり芸術にはおよそ無理解。音楽の先生は一人きりで、面倒見てくれるのは合唱部のみ。吹奏楽部は野球の応援団の一部くらいにしか思われず、何と指揮も部員自らがやるという悲惨さ。しかし、これが不幸中の幸い(なのか災いのもとなのか・・・)僕は3年の時に指揮者になりましたが、これがなかなか面白い。

嵩じてスコアを読み漁ったり、近所の先生(後述するN先生)に指揮を習ったりしている内に、「プロの指揮者になりたい」ということで、「和声法」やら「ソルフェージュ」やら「ピアノ」やら独学でやりだす始末。地元の楽器店で求める楽譜がないと分かると、わざわざ上京して銀座のヤマハへ行ってなけなしのこずかいで買ったものです。春の祭典とかダフニスとクローエとか・・・懐かしい。

高校で私が指揮した年は、生徒だけの運営ながら県代表にまでなり、ちょっとした快挙となりました。生徒の指揮者は珍しいということでTVにも出たらしいのですが、ビデオもない時代、記録は残っていません。ちなみにこの高校の吹奏楽部いまや全国大会金賞の常連だそうです。私の二年後輩が部の同窓会事務局として活躍しているようです。今の繁栄はあの年の県代表獲得がまさに第一歩だったと力説してくれるのでちょっと嬉しい。

この時、指揮でお世話になったN先生は、本当に人生の師です。指揮の技術的なこともさることながら、スコアの読み、楽団員への指導、ユーモアを交えて全員を同じ目的へ方向付けする指導力はその人間的魅力も含めて後々のビジネスの世界でも、組織運営や個人の動機付けなど、思い当たることが多々あり、感謝の気持ちで一杯です。学校の受験勉強と比べてどちらが価値のある教育か一目瞭然。N先生こそ真の教師だと思います。N先生の意識としては、もちろん人生を教えるつもりはなく、単に音楽を指導したのだと思いますが、これが全てに通じる真実を伝える教育であるところがすごい。今、僕が子育てに対して人並み以上に興味があるのもN先生の影響だと思います。 (2004年6月14日記)

Part III

作曲のこと

吹奏楽部の指揮をやっていた同じ年に、全国インターハイがわが県で開催されました。開会式のファンファーレを県民から募集することになり、これに応募したら採用されてしまいました。バルトーク風の四度の和音と不協和音を強調して作曲したのですが・・・晴れの表彰式。何と演奏されたのは、原型のかけらもないほどに編曲された「品行方正かつスクウェアな」シロモノ。?と?と?の和音しか使わない、後半ちょっと転調していたかな?何やら審査員の先生に編曲していただいた模様。自分の出来の悪さは棚に上げ、「大人は汚い」「何もわかってくれない」と一人憤慨したのを覚えています。今冷静に振り返れば、ただ単に出来が悪かっただけなんだと「断言」できます。(この審査員の先生、当時僕が恨んだことも、今反省していることも知らない。)

結局才能もなかったんでしょう。芸術系ではなく文系(法学部)大学に入り、音楽への積極的な関与は、しばらく沙汰止みとなりました。(2004年6月14日記)